コロナの最中に懇志

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ついに東京オリンピックが開催となりました。
コロナの最中で行う事に様々な意見で以て開催されている事に、更に圧し掛かる次第でもあります。

東京オリンピックの開会式の入場行進曲では『ドラゴンクエスト』『ファイナルファンタジー』などの曲が多く使用される事でオリンピックに挑戦する意気込みを表しているようなシチュエーションでもあります。

しかし実際問題、人生はRPGと称すならば、以前より生き難い世の中であるにも関わらず、この一連の騒動のコロナに拍車をかけて更にゲームの世界に当てはめるとするならば、ゲームバランスの取れてない

激ムズ&鬼畜ゲーム

の状態であります。

「人生はRPG!」ドラクエの生みの親、堀井雄二氏の言葉と想い

人生は神ゲーだ。人生をRPGゲーム化する3ステップ

上記の意見に対して現状では、どのようにして受け止められるのでしょうか?

寺院という業界においても更に風当たりが厳しくなる一方で、宗教&僧侶の力等に頼らなくても現代人は生きる術は身に着けているものの、自身が生き残れる事に集中せざるを負えない現状であります。

この状況で寺院の管理が行届かずして疲労困憊の状況に陥る際に、檀信徒様へ懇志を要求すれば、当に

焼石に水

となります。

「こんな時に寺なんかに構ってられるか!」

という意向でもありますし、その中で寺院修復、本山への等懇志の通達を郵送すれば更に反感を買う一方でしょう。

国民の義務である納税だけですら不満が募る一方で、世間一般的の方達から寺院に対する不信感が募るばかり。
檀家の義務は懇志ですら、不満とされているのが現実。
国に対して納税する以上に不満度合いが桁外れであります。

実際に派遣先で本山の大谷本廟に納骨する説明をする際には檀家である証明をする事を説明したら、

「檀家になったら寺院の修復代を払わないといけないじゃないですか~こっちは家族養うだけで精一杯なのにお寺さんまで養う労力なんて持ちこたえられません」

と言われた事があります。

本来の宗教は救いと称しているが、反って人々を苦しませる。

RPGゲームじゃあるまいし、全滅という絶望の淵に立たされて更に金は半額となり教会に懇志しなければ復活しないという苦しみは、強くなる為に乗り越えるシステムであったがRPGゲームの世界と同じシステムでは現実では通用しない。

この現状では、RPGゲームに例える事が難しい次第でもあります。

これからの法話

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法話の基本は❪聴聞❫と言われてる。
本来ならば、仏教の開祖である釈迦は「対機説法」で以て教えを説いた。

ブッダの言葉に学ぶ「横柄でえらそうな人」を一瞬で黙らせる"ある質問"

にも関わらず、相手の話も全く聞かずして自身のリテラシーのみで多くの人々の前で演説をする事が基本的である対機説法に当てはまっているのか?と疑問点に浮かぶ次第であります。

過去のブログでも述べております↓

法話の際は一方的に話すのではなく、遺族や参列者と対談すべき

何度も申しているが政教分離の為に宗教におきまして日本仏教に着目しても、各宗派等のこと細かい事は世間一般で知られていない事のケースが殆どなのです。

その為に世間一般の方達には❪聴聞❫と称して、専門的な仏教用語や仏教書物の古文からの引用を含めた法話で以て時間を要するという、これまでのやり方では新時代に通用するのでしょうか?

【古文漢文】「要らなくないすか?」ひろゆきがぶち上げた"オワコン論争"物議に…なぜ必修課目?カリスマ古文講師&ブルガリア出身の研究者と激論【受験】【義務教育】

現代人は1日24時間の限られた時間の中の合間で以て時間の使い方の要領を駆使しております。
例えば電車で移動中の際はLINEでの連絡やSNSのチェックやニュース記事等の情報収集。
YOUTUBUの動画ですら速度倍速や飛ばし見等で時間の逆算等をして時間の使い方の要領を踏まえているのです。

【コスパ】倍速視聴&飛ばし見&考察サイト完結は当たり前?可処分時間を奪い合う時代はコスパ重視に?倍速派とノーマル再生派が熱論【EXIT】【漫才】

これからの新時代において、ゆっくりゆったりとした仏教用語や仏教書物の原文を駆使した法話を❪聴聞❫と称して、一方通行的に施主様達に言い聞かせて、御布施という金銭だけでなく貴重な時間まで消費させられたら、どのような気持ちになるのでしょうか?

それでも❪聴聞❫だと言い聞かせる事を貫き通すなら、参拝者全ての気持ちを踏まえて動画速度を倍速するように早口や、まどっろこしい言葉を話す事なく簡略に纏めた法話が果たしてできるのでしょうか?

過去ブログ↓
若年層にとっての仏事&法事


尚、現代は時代の変化の兆しであります。
これまでの檀家制度も最早風前の灯火であります。
仏教におきましても、末法と言われた時代から約1000年過ぎております。
末法の次は滅法の時代であります。
滅法まで、まだまだ時間の猶予がありますが、まだまだ仏教を必要とされる方達には本来の釈迦と同じように
「対機説法」
を実践すれば、僅かな可能性にかけるしかないと思います。

現代社会の死生観

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【死生観】なぜ学校や家庭で死の教育はタブー視されるのか?兼近大樹「子どもの頃からずっと考えていた…」テクノロジーで生と死の境界線が曖昧な時代に?死生観をEXITと考える


人は病院で産まれて命を育み、人は病院で死を迎える。
現代では医療の発達から、このようなイメージである。
歴史を遡れば、家で産まれて生涯を全うして家で死ぬケースが多かった。

仏教では

生死一如 

という四字熟語があるが、生と死は表裏一体で切り離せないものという意味合いであります。

上記の動画の如く、学校や家庭での「死」の教育ができない事も、何度も述べてるが、政教分離である為に公の学校では宗教観を交えた「死」について学べないという点もある。
その為に身近でもある「死」に関する死生観を意識付できないというデメリットでもあります。

出演者や「デスカフェ」参加者の中にはそれぞれの死生観を抱かれている。

その為に、各宗教の教義におけるを当てはめるにしても、人それぞれの死生観を抱かれているのだから宗教側も対応する事も極めて困難な課題でもあるのです。

上記の動画では、寺院が(死の体験旅行)という容で死後の世界について語られおられました。
私も同業種として質問された際には、過去に下記のブログでも述べております。


過去ブログ↓

死後の世界について

死後の世界をわかってないのは実はお寺さんも同じ

死に関しては様々な意見が飛び交っている。


「死についてなんて暗くなるから考えたくない」
(生きる事)は考えれても(死)も考える必要もあります。

「死ぬときに考えればいい」
死んでしまったら意識もなくなるのだから、考える事もできない。

「死を授業で扱うとかトラウマになるからやめて」
生きていても生き辛さによって、(トラウマ)とは切っても切り離せない事であります。

これも先程述べました

生死一如

の事でもあります。

※この事柄に関しては意見に対して論破しているわけではありません。

やはり、(死)について忌み嫌われる理由は、やはり生きている為に生(自身の命)に対して執着するがあまりに、(死)から逃れたいという本質的な事があるからです。

その為に人は生きる事、自身が生きてきた証として何かを求めていく三大欲求に定義づけられます。

どれだけ生き辛い世の中になっても人は生きていく事に執着してしまう事は本質的な事柄から逃れられないのです。

主に(死)について人々の応えてきた仏教の開祖である、お釈迦様を教えを受継ぐ我々寺院の僧達も、葬式仏教&檀家制度仏教ばかりの「死」について、これまで本質的に語られてきた事が少なかった事が改めて、この生き辛い時代に応える課題でもあります。

生死一如

に関して天秤にかければ(死)ばかりに、これまで偏ってきた為に本来の四字熟語の意味合の如く(生)とのバランスを保つ事が命と向き合える事であると思えます。

信教の自由の意味と向き合う。

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この国は信教の自由だからこそ、宗教と向き合い地雷を踏まないのと落とし穴🕳にハマらないように気を付ける事です。
その為に、どのような宗教でも薬と同じような効果がある為に取扱注意なのです。
宗教によってはリスクの大小もある事を踏まえて向き合う事です。

宗教に関しても、ほんの雑学としてwiki等で調べても莫大な情報量の為に半信半疑である事も心掛けていく事も意識付け無ければならないのです。
その為に幅広く、多種多様な角度の視点によるリテラシーで以て受け止めなければならないと思えます。
何故ならば宗教とは答えが明確ではないからです。
だからと言って、最低限の宗教に関して知識を得るには宗教教育が必要となりますが、生憎この日本国におきましては政教分離の為に実際に行う事は不可能であります。

その為に運営している母体が宗教団体である、私立の学校のみでしか、母体の宗教の教義に基づいた授業でしか宗教教育が行われているのみです。
それも大幅ではなく、母体の宗教における教義の主体性に偏りがちの授業である為に、宗教という業種や各宗教における教義(一般的に例えるなら理念と称せばいいのか?)を指導されてない実情なのです。

尚、宗教団体が運営母体の私立中学校、高等学校、大学でも宗教教育よりも部活動や進学率等、就職率に視点としております。
なので実際には、宗教教育に関しては濃くもなく薄めの授業の一環として行っております。ほんの雑学程度です。
その点に関しましては一般的な他の私立の学校と同じで変わりありません。

尚、私自身も他宗教に関しては多少の知識はあれども実際に入信したり他宗教に基づいた宗教活動の経験がなければ理解に至る事は不可能であります。
なので、知識と称しても雑学でしかならないのです。

また、この日本国における世間一般では、キリスト教式の結婚式やキリスト教徒でもなくクリスマスを行う事。
神道における、正月の門松、しめ飾、神社への初詣、子供が産まれたら七五三、合格祈願や御輿担ぎの(だんじり)等。
佛教のイメージは葬儀、法事、御盆参り、墓参り等の供養、死に関する事となる為にダークなイメージであります。
後、現代社会において疑問視されている檀家制度という為に布施や懇志という高額な金銭を徴収される負債的なイメージが定着している為に佛教に関する風当たりは厳しいものであります。

尊敬よりも信用される住職に

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これまで何度も述べてるが現代において、お坊さんは厳しい修行を積み重ねてきたからこそ❪徳❫があるとか世間一般の方より超越している訳ではない事が、この情報化社会となる以前から赤裸々に認識されている。
それは世間からの視線を浴びれば一目瞭然な事を理解していない事が多い為に一番の問題であります。
その為に
「自身は出家した身である」
とか、
「自分はお坊さんだから~」

であるという言葉を並べてのアイデンティティーと自負している輩。

とくに専業寺院に、よくみられる。
社会との接点がなければ人として生きながられない。


現代において社会との接点がなければ、自身が寺院に住めるという特別職で住職という立場が保たれている事。
衣食住を営む事ができるのも社会との接点との繋がりに関する理解力不足。
それにも関わらず出家した身、社会を捨てた立場で僧侶であると自負するのはどうかと?
社会との関係は切っても切れない関係なのです。
極論になりますが、仏教の開祖である釈迦自身でさえ托鉢によって人々から施しを受けて生きながらえたのです。
なので、当時の社会との接点はあったと解釈してもよいのは極論であると個人的な意見であります。
ただ、王位を捨てたのみで出家したという意味合いではないのか?

現代における❪僧侶❫という実質的な意味合いは、葬式仏教を含めて供養という法務❪業務❫と一般的に言えばいいのか、現代人の殆どがインターネットで検索してトップ画面のサイトで以て僧侶派遣を依頼する事。

以前にも述べておりますが寺院はコンビニの件数よりも多く点在するのにも関わらず、まず近所の寺院に直接依頼をする事はないでしょう。

※この事柄に関しては、このブログの初めての記事で述べております。

下記参照↓

寺院と社と祠は身近なのに遠からず近からず


その為に、需要としては葬儀や法要の時のみでしか寺院に用件を申し出ない事が殆どであります。

観光寺院ではなく、一度、自身の住んでいる近所の檀家寺や一般寺院を訪ねてみられて❪信用❫できる寺院なのかを見極める事であります。

※過去のブログ記事にも同じような事を述べております。

下記参照↓

観光寺院より檀家寺院巡りをしてみては?

また、❪信頼関係❫をどのようにして築くのか?

自身の術は派遣におきましては檀信徒様以外と初対面する際には、まずは❪信用❫を得て、お互いの❪信頼関係❫を築く為に色々と工面の試行錯誤をしている最中であります。

例えば下記の過去記事↓

法衣姿で腕時計はミスマッチ

寺院という特殊な業種である為に一般の方達には、まず触れる機会が少ない為に全く知識もないままでは思惑道理にされてしまう事に注意して頂きたい。

※特に宗教において一番重要な事は向き合う事なのです!

これはどの分野、業種においても同じ事が言えます。

寺院の仕事は需要がない為に、たまに入る葬儀や年回忌法要がない時には普段の生活は時間が有り余っているので、時間の合間で以て世間に奉仕してボランティア活動等を行い人々から注目を集めるパフォーマンスで以て、いかにも❪人徳❫があるよう見せかけて、❪尊敬❫の念を得ようとする行為。

また寺院活動での功績等、所属している寺院の格式や伽藍等。

表に出されたメリットのみしかない情報配信を鵜呑みにする事ではなく、自身の目を研ぎ澄ませて研鑽する事に向き合って頂きたいものです。

何事の分野や業種におきましてもデメリットに関しては表に出される事はないのですから。

その為にも、まず寺院側が❪信頼❫される以前に❪信用❫される事が課題であります。

もうお寺さんと言われている人達が、世間一般から❪尊敬❫されてない事に気付けてない事が問題でありますから

ちなみに当寺院に関してのデメリットは、地方部である事は勿論であります故に、公共交通機関におきましては、利便性の悪い場所に点在しております。
最寄り駅は第三セクターのWILLER TRAINS(京都丹後鉄道)宮津線の(コウノトリの郷駅)であったり、本数の少ないバス停が最寄りとなっております。
最寄りのバス停は当寺院からの北側の(上庄境)、南側の(百合地)となっております。

※尚、最寄りのバス停(豊岡駅発、『奥野行』の路線におきましては土曜日は平日より本数が少なく、(日曜日&祝日)は全便運休となっております。

コウノトリの郷駅

JR西日本(豊岡駅)からも離れた場所の田園地帯です。
本堂も改装はできておらず、建立した時と変わらない現状であります。

※余談でありますが、このようなブログを書いている私自身にも問題点がある事でもあります。

詳しくは当寺院HPを参照してください。

コウノトリゆかりのお寺 西教寺